ジョアン・ジルベルトのコンサート

ジョアン・ジルベルト


昨日のジョアン・ジルベルトのコンサート。僕は時間の半分ぐらい感動のために涙していた。もちろんボロボロと涙をこぼしていたわけではないけど、なんかジワッと出てきてしまったのだ。


ここに書いてあるのは、僕のとてもあいまいな記憶に基づいているため、もしかすると事実と異なるところもあるかもしれない。でも、感じたことはすべてほんとうである。最初に断っておく。


予定よりも20分ぐらい遅れて始まったのだけど、大半の人が織り込み済みというか、もっと遅れることを想定していたふうがあり、意外と開演間近はバタバタしている雰囲気だった。しかし、いよいよ会場が暗くなり、ステージの青白いライトがほんのりと灯り出すと、会場は一種異様とも言える静けさに包まれる。音を立てられない。くしゃみもできない。鼻もすすれない。つばを飲み込むことさえためらわれる静けさ。文字通り、ジョアン・ジルベルトが出てくるのを今か今かと固唾を呑んで待つ。


そしていよいよステージが明るく照らされ、ジョアン・ジルベルトが登場する。ちょこちょこと言ってもいいぐらいの足取りで。ギターを縦に抱えて、何回か立ったままお辞儀をするジョアン。下では、スタッフがマイク位置を調整している。


おもむろに座ったかと思うと、突然歌い出した。何の曲だったかはよく覚えていない。おそらく、僕が名前を知らない曲だ。たぶん、どこかに曲目は発表されるだろうから、それでいいや。


二曲目で僕の大好きな「三月の水」を歌ってくれた。確かに、最初の数曲はまだギターの弦に手がなじんでいないのか、多少ビリビリとしたノイズが混じったりしていた。しかし、5曲目ぐらいから俄然本人も乗ってきたのが分かる。僕らもジョアンの世界にぐいぐい引き込まれる。


途中、ジョアンから見て右側のモニタースピーカを確認するように立ち上がってその前で体を二三回横に振った。それからまた席について「アリガトウ、アリガトウ」と言って演奏を始める。


この後、Waveを弾いていたぐらいからの中盤が一番乗りに乗っていたと思う。こんなにも観客が入っているのに誰もいないかのように静まり返ったホールに*1ジョアンの声とギターが心地よい残響と共に隅々にまで行き渡る。僕は目に涙があふれてくるのを感じながら、時に目を閉じ、また時にジョアンの姿を目に焼き付けるかのように見つめながら聴いていた。僕たちはそのとき、一つの四角い宇宙の星々になったように思えた。ジョアンが明るい恒星のように強くしかし静かに輝き、僕らはそのまわりをふわふわと漂っている、そんな感じだ。


そうした中盤も過ぎ*2ジョアンに多少の疲れが見えてきた、というときがあった。そう思っていたところ、その曲が終わったらジョアンは袖に帰っていった、またちょこちょことした足取りで。途中、いっかい止まって、ギターを縦に抱えてちょこちょことお辞儀をする。


もちろんアンコールがある。それから最後の「イパネマの娘」まで、僕はこの時が永遠に続くことを願いながら聴いていた。まだずっと聴いていたい、せめてあと5曲は聴いていたい。実に身勝手な希望だけど、本当にずっとそう思っていた。


しかし、時は過ぎ、「イパネマの娘」が始まった。ラストである。僕は「イパネマの娘」が最後の曲であることを知っていたので、少し残念に思いながらも、体全体で聴いた、感じた。そして終わった。ジョアンは前と同じようにしてステージを去ってゆく。拍手が鳴りやまない。場内が徐々に明るくなり、ステージが暗くなっていく。「ジョアン・ジルベルトのコンサートが終わった」。しかし僕らは確かにそこにいて、ジョアンの音楽を生で聴いていたのだ、というその記憶は各自の中に刻まれ、それぞれの一部になった。そしてそれは、これからの何気ない普通の生活の中でふと顔をのぞかせてじんわりと僕らの心を温め続けてくれるに違いない。


ちなみに、今回のコンサートでは「フリーズ」はなかった。


付け加えさせてもらうなら、僕も日本のオーディエンスの質の高さというものを感じないわけにいかなかった。物音一つ立てずにこんなにも音楽に聴き入る聴衆というのが他にいるのだろうかと思ってしまった。途中、なぜか一人だけ手拍子を始めてしまった人がいたけど*3、他の人はずっと静かに聴き、演奏が終わると温かく拍手した。


どちらかというと、日本人はオーディエンスとしての自分たちに引け目を感じていた感があるように思う。“ガイジン”が望むようなレスポンスを返せない自分たちをもどかしく思い、時には無理やりノリノリのふりをしていたことだってあるだろう。


しかし、いろいろなところに行って思うけど、日本人の多くは芸術を愛している。美術も音楽も。そしてそれを静かに受け止める。派手なリアクションはしない。しかし、「ほ・ん・と・う」に見ているし、聴いているのだと思う。そしてそれを心の奥底で楽しんでいる。ジョアン・ジルベルトがそれを認め、評価し、喜んでくれたことを僕は素直に喜びたい。「それでいいんだよ」、ジョアンがそう言ってくれたように思える。


話がどんどんあさっての方向に行ってしまうけど、僕が最近思うのは、日本人は自信を取り戻しつつあるということだ。それは単に経済大国だからではない。経済大国だって不況でどん底になることだってある、ということが分かった今となっては経済大国かどうかというのは大した問題ではない。むしろ、自分たちが今まで築いてきた文化に目をむけ、それを素直に評価できるようになってきているように思える。以前は「偉大な」西洋文明によって目がくらまされ、自分たちの持っている文化的な価値を見失っていた。しかし、他の文化の正当な評価というのは、まず自分たちの文化を正しく受け入れることから始まるのではないだろうか。無意味に他の文化を低く見たりもしなければ、やたらと崇め祭ったりもしない。それぞれに正当な評価を与えることができる。そして、それは自分の文化に対しても同様である。


僕は最近、日本もやっとそういうところまで到達しつつある、と感じるのだ。それとも、こういう見方はまだまだ“甘い”のであろうか。

*1:もちろん厳密に言うといろいろ物音はあった。でも、あれだけの人がいることを思えば許容範囲であったように思う。

*2:実際には、その時にはそれが中盤かどうかなんて全然分からなかった。あとで振り返ってみて、あれが中盤だったんだ、と思ったに過ぎない

*3:それが良かったのか悪かったのかは分からない。もしかするとジョアンは手拍子をして欲しかったのだろうか。それは分からない。でも僕はこのコンサートは「聴き」に来ているという感じがしていて、手拍子などでジョアンのギターと声の響きがかき消されてしまうのは適当でないような気がした。