村上春樹「もし僕らの言葉がウィスキーであったなら」★★★★★

もし僕らのことばがウィスキーであったなら (新潮文庫)

他に行った人は整体とリフレクソロジーの両方をやってもらったので、僕はそれを待っている間、持参していた「もし僕らのことばがウィスキーであったなら (新潮文庫)」を読んだ。僕はこの本はすでに何度か読んでいるんだけど、なかなかこれほどすばらしい旅行記はないように思う。僕にとってこの本は、旅の教科書と言ってもよい本で、旅を楽しむというのはどういうことかというのがよく分かる。なので、時々本棚から引っ張り出しては数ページ読んだり、写真を眺めたり、また今回のように通しで読んだりしている。待ち時間の30分ぐらいで読めてしまう分量なので、実に気軽に開くことのできる本である。


この本は村上さん(とりあえずこう呼ばせていただきます)と奥さんがスコットランドアイラ島アイルランドを旅行したときの旅行記で、奥さんが撮った写真もかなりの数が掲載されている。その旅にはテーマがある。タイトルから分かるように「ウィスキー」だ。シングルモルトウィスキーの産地として名高いアイラ島と、ウィスキー発祥の地アイルランドを旅するのだから、そのテーマは必然とも言える。


別に僕なんかにこんなことを言われたくないかもしれないけど、この本では、村上さんの文章は冴えまくっている。もちろんだいたいいつも冴えているのだけれど、この本の冴えっぷりは半端ないように思う。村上さんがいかにウィスキーを愛しているかが分かるし、そのときの旅行がいかにすばらしいものであったかもよく分かる。


ちょうど僕は今、同じ村上春樹の「シドニー! (コアラ純情篇) (文春文庫)」を読んでいるのだけど、そちらは作者の視点の冷めっぷりがおもしろいというか、完全に一歩引いている感じがする。シドニーオリンピックの観戦記でありながら、あんまりオリンピックのことは書いていなくて、開会式も途中で帰っちゃうとか、コアラの繁殖センターはコアラ用のポルノ雑誌でも用意しているのだろうか(雌のコアラの全裸写真?)とか、そういう感じである。もちろんその視点というのがおもしろくもあって、ときどきクスッと笑ってしまうことになる。でも、愛情と喜びの込められたこの本はやはり別格のにおいがする。


この本のタイトル「もし僕らのことばがウィスキーであったなら (新潮文庫)」に関連して、冒頭のところでこんなことを書いている。

僕が旅先で味わったそれぞれに個性的なウィスキーの風味と、手応えのあるアフター・テイストと、そこで知り合った「ウィスキーのしみこんだ」人々の印象的な姿を、そのままうまく文章のかたちに移し変えてみようと、僕なりに努力した。ささやかな本ではあるけれど、読んだあとで(もし仮にあなたが一滴もアルコールが飲めなかったとしても)、「ああ、そうだな、一人でどこか遠くに行って、その土地のおいしいウィスキーを飲んでみたいな」という気持ちになっていただけたとしたら、筆者としてはすごく嬉しい。

ここまでだったら、それは普通の旅行記の前書きであると言ってもよいように思うが、やはりそこは村上春樹である。そのあとに、

もし僕らのことばがウィスキーであったなら、もちろん、これほど苦労することもなかったはずだ。僕は黙ってグラスを差し出し、あなたはそれを受け取って静かに喉に送り込む、それだけですんだはずだ。とてもシンプルで、とても親密で、とても正確だ。しかし残念ながら、僕らはことばがことばであり、ことばでしかない世界に住んでいる。僕らはすべてのものごとを、何かべつの素面のものに置き換えて語り、その限定性の中で生きていくしかない。でも例外的に、ほんのわずかな幸福な瞬間に、僕らのことばはほんとうにウィスキーになることがある。そして僕らは −少なくとも僕はということだけれど− いつもそのような瞬間を夢見て生きているのだ。もし僕らのことばがウィスキーであったなら、と。

と、こんなふうに書いている。ほら、冴えまくってないですか?


ともかく、この本での村上さんの目的は少なくとも僕の上には達成されたと言っていいだろう。この本で僕はウィスキーが好きになり、そしていつかアイラ島アイルランドにウィスキーを飲みに行くことを決意したのだから・・・。


文章だけでなく、奥さんが撮った写真というのも素人離れしていてすばらしい。この写真と文章で、僕らはその旅行の同伴者となって、ページからときどきしみだしてくるようなウィスキーと草と潮の香りと、ちょっと客の少ない午後のパブとレストランの雰囲気を感じながら、一緒に旅を楽しむことができるのだ。