会話とは質問である、・・・と思う

Internet Watchの「やじうまWatch」で知った「理系の男はなぜモテないのか」というのを読んで、身につまされるところがあった自分ではあるが、いずれにしても、モテるモテないに関わらず女性と親しくなるためには会話は不可欠であり、それを避けて通ることはできない。そして、それが男(特に理系)にとって最大の障壁となる。自分も会話というのは大の苦手であるが、個人的に最近達した一つの結論がある。


「会話とは質問である」


ということ。この年になってこんなことに気づくというのが、そもそも理系男のダメなところであるとは思うけど(そもそもこういうのは“気づく”んじゃなくて“体得する”ものなんだろうね)、会話のうまい人(続く人)のことを注意深く観察してみると、ちょっとした質問を次々に繰り出していることが多い。上にあげたblogのトラックバックにあったような「何年生?」とか、そういうことだ。一方で、先のblogにあるダメ会話パターンを見ると、“質問をしていない”ということに気づく。あそこまでいくと極端だとは思うが、あり得るパターンとして、最初の「聞いてよ。ウチのハゲ部長がさー、超セクハラ野郎でー」に対する返事で「へぇ、大変だね」と言ってしまい、それきりということがある(というか、自分がそういう返事をしてしまうバカだったということなのだが・・・)。これは共感しているようでいて、共感するための材料が乏しく、うわっつらな返事しかできない。しかもこれで会話が終わってしまうという最悪のパターンとなる。ということで、適当な質問を投げることがキーになる。


「質問をしない」ということで思い出したのは、村上春樹の小説に出てくる「僕」である。小説の世界は現実と異なるから、例としてよくないかもしれないが、一応思い出されたので・・・。「僕」は完全文系人間と思われるが、ほとんど質問をしていない。しかし、彼はある程度モテている(ように思う)。「僕」の場合、質問をしてくるのはひたすら女性側である。ただ、そこで「違うなぁ」と思うのは、質問に対する「僕」の答えは“かっこいい”、あるいは“クール”、あるいは“知的な香りが漂う”ものであるということ。しかし、このような言葉を発するのは理系人間にとってはかなり難しいことであるように思う(こういう面でも理系は不利なのだ)。そういうわけで、質問でつないでいく方がまだ望みがあるように思う。


ただ、自分がそうだったのだが、人に質問するっていうのはとても重いことに思えてしまう。別に知りたくないことを質問する、ということにとても抵抗を感じてしまう。でも、会話を成立させるためには、自分としては別に知りたいと思っていないような(もちろん当たり障りのない)ことをいろいろと聞く必要があって、そういう中から探し出される相手との共通認識が非常に大切である・・・ように思う。


そもそもなぜ質問をしないのかということを考えると、根本的な問題は、「人に関心がない」というところからスタートしているんじゃないだろうか。理系の人は問題となる事象なり物事なりを論理的に考え、それに対する解法や結論を提示するのが大好きな人が多いと思う。そう、ここにも一人(汗)。そういう人にとって重要なのは「人」ではなくて「解法・結論」。これが問題点なんだなぁ、ということに、上のblogを読んでいてあらためて気づかされた。あるいは、他の人の意見や感じ方を聞いて受け入れようとする謙虚さが足りないということかもしれない。


質問の仕方とか、受け答え、いろいろな小話題なんかは、やっぱり人とのかかわりの中でだんだんに磨かれてブラッシュアップされていくような気がするので、そういう訓練を怠ってきた自分のような人はそうとうがんばる必要がある(悲笑)。