庭について

天龍寺


一週間経っちゃったけど、結局、京都には四泊して帰ってきた。自分で意識していたわけではないんだけど、南禅寺から嵐山へ反時計回りに回ってきたことになる。それぞれの詳細を毎日書こうと思っていたんだけど、結局疲れてすぐ寝てしまっていたので、何も書けなかった。


とりあえず、全体の雑感として、まず、庭について書きたいと思う。


僕の見た範囲での個人的な感想としては、京都の庭は南禅寺方向から反時計回りにレベルがアップしているように思う。もちろんすべての庭を見たわけではないので、一概には言えないんだけど・・・。


やはりなんだかんだ言って最も印象に残ったのは、嵐山にある天龍寺の庭である。紅葉は始まったばかりという感じだったので、紅葉の最盛期の美しさというのは分からなかったが、それでもその庭のすばらしさに心を打たれた。


僕の感動の尺度としてあるのが、ヴァチカンのサンピエトロ大聖堂を見たときの感動というか驚きというのがある。あそこでのあっけにとられ感というのは僕の心に強い印象を残していて、その後フランスやスペインのいろいろ他の大聖堂とかを見る機会があったんだけど、それを超えるようなものは何もなかった。そして、イタリア旅行から帰ってきたときは、日本のごちゃごちゃした感じにがっかりしたものである。


しかし、今回見た天龍寺の庭は僕に、もちろん感動のベクトルは多少違うけど、サンピエトロと同じぐらいのインパクトをもたらした。まじめに感動して泣きそうになったもんなぁ、ちょっと恥ずかしいけど・・・。それは僕にとってすごいうれしい経験でもあった。日本の持つ文化のすばらしさを認識できたからである。日本にもこれほど感動をもたらすものがあったのか、ということに驚き、うれしくもあった。


庭は一つのすばらしい芸術である。絵画が何かの一瞬あるいは限られた時間をとらえてそれを静的に残そうとする芸術であるのに対して、庭は何百年も先を見越しつつ、四季の移り変わりを意識して緻密に計算された生きた芸術なのだ。


天龍寺の庭は、はっきり言ってその面で何の狂いも迷いもほころびもない。完全に完成されている。完成されていながら、生きている。生きているから、同じ庭を見ることは二度とないのだ。年によって違う。季節によって違う。天候によって違う。時間によって違う。しかし完成されている。これほどすばらしいものがあるだろうか。


そして、日本の庭の特徴というのは、建物の内部は暗く、その闇に対する明として対比的に鑑賞されるということのように思う。そのコントラストがまた心をとらえるのだ。


近年、ガーデニングブームである。分かる気がする。日本的な庭を造るのは高度な芸術性が求められるために一般人では無理なのだ。それに、日本の庭は空間も大事だから、日本の住宅事情ではそのような空間の遊びのようなものを表現することはきわめて難しい。それでどうしても比較的少ない空間でも表現しやすいガーデンに行ってしまうというのは当然のように思える。


別にこれはガーデニングそのものをどうこうと言っているのではなくて、僕もきちんと作られたガーデンやかわいい花々を見るのは好きだ。それはただ比較の問題なのだ。日本の庭は一つの高度な芸術であるということを感じた、そういうことである。


追記的に、龍安寺の石庭についてもふれておきたい。個人的にはけっこう期待していったんだけど、何しろ人が多すぎた。天龍寺の庭でも人はたくさんいたんだけど、そちらはまだ大丈夫だった(もちろん、人が少ない方がいいんだろうけど・・・)。でも、石庭は人が多いとダメだと思う。「石たちの声は小さいのでの」と言ったラピュタのおじいさんの言葉が頭に浮かんできた。石庭は、一人庭に対して相対し、静かに鑑賞しないといけないもののように感じた。となりでおばさんたちが足立区の話とかをしている状況では庭の良さを味わうことなどとうてい無理なのである。